序章:72歳一人暮らし、夫の遺した800万円の貯金
2024年11月、冷たい風が吹き始めたある平日の午前。田中京子(72歳)は、いつものように一人で朝食を済ませ、洗濯物を干していた。3年前に夫を病気で亡くして以来、京子は都内の古い一軒家で静かに暮らしている。
「お父さん、今日もいい天気ですよ。」
仏壇に手を合わせるのが日課だった。京子の生活は質素そのものだ。月12万円の年金でやり繰りし、贅沢は一切しない。夫が遺してくれた800万円の貯金は、「私の老後の命綱」として大切に守ってきた。一人息子は遠方に住んでおり、連絡は月に一度程度の電話のみ。「息子には迷惑をかけたくない」というのが京子の口癖だった。
京子は根っからの真面目な性格で、法律や規則を重んじるタイプだ。近所の交番の前を通れば必ず会釈をし、銀行の窓口では行員の話を熱心に聞く。そんな彼女にとって「警察」や「銀行」は、絶対的な正義であり、疑う余地のない存在だった。
その真面目さと信頼心が、まもなく彼女を地獄の底へと突き落とすことになるなど、この時の京子は知る由もなかった。
⚠️ 免責事項
この記事は実話を基にした体験談であり、法律的アドバイスではありません。警察官騙り詐欺や劇場型電話詐欺の被害でお困りの方は、直ちに警察(#9110)または消費生活センターにご相談ください。記事内の人物名は仮名であり、実在の団体とは関係ありません。
📖 この記事はこんな方におすすめ
- 高齢の親と離れて暮らしている方
- 「自分は詐欺に引っかからない」と思っている方
- 固定電話を日常的に使用している高齢者の方
- 警察や銀行からの電話を無条件に信じてしまう方
💡 この記事で学べること
- 警察・銀行・金融庁の3役が登場する「劇場型詐欺」の巧妙な手口
- 「電話番号偽装」によって発信元を信じ込ませる技術
- 被害者を精神的に追い詰める「時間的圧迫」の心理操作
- 電話でお金の話が出た時の正しい対処法
第1章:警察官からの電話「あなたの口座が犯罪に使われています」
午前10時ちょうど。静かなリビングに固定電話のベルが鳴り響いた。ナンバーディスプレイを見ると「03-XXXX-0110」という番号が表示されている。末尾の「110」を見て、京子は反射的に背筋を伸ばした。
「はい、田中です。」
「警視庁捜査二課の青木と申します。田中京子様のご本人様でしょうか?」
電話の相手は40代くらいの男性で、低く威圧感のある声だった。「警視庁」という言葉に、京子の心臓がドクンと跳ねた。「はい、そうですが…何かあったのでしょうか?」
青木と名乗る男は、深刻な口調で続けた。「実は、単刀直入に申し上げます。あなた名義の三井住友銀行の口座が、大規模なマネーロンダリング(資金洗浄)事件に使われています。」
「えっ…マネーロンダリング?そんな、私は何もしていません!」京子は動揺して声を荒げた。
「落ち着いてください。詐欺グループがあなたの個人情報を盗み、勝手に不正口座を開設している可能性が高いのです。しかし、現状では口座の名義人であるあなたにも共犯の疑いがかかっています。」
「共犯…!?」京子の顔から血の気が引いた。真面目に生きてきた自分が、犯罪者扱いされるなど耐えられない恐怖だった。
青木は少し声を和らげた。「もちろん、田中様が被害者である可能性も考慮して捜査しています。身の潔白を証明するためには、捜査への全面的な協力が必要です。今から銀行の担当者から電話がいきますので、その指示に絶対に従ってください。これは極秘捜査ですので、誰にも口外してはいけません。」
「わかりました…協力します。」京子は震える声で答えた。電話が切れた後、京子は震える手で着信履歴を確認した。間違いなく「110」が含まれる番号だった。「本物の警察だ…どうしよう」

第2章:銀行員からの電話「キャッシュカードの交換が必要です」
青木との電話から15分後。今度は「0120」から始まるフリーダイヤルのような番号から着信があった。
「三井住友銀行コールセンターの高橋と申します。田中京子様のお電話でよろしいでしょうか?」
相手は30代くらいの女性で、非常に優しく丁寧な口調だった。先ほどの青木の威圧的な態度とは対照的で、京子は少し安堵した。「はい、田中です。」
「先ほど、警視庁の青木様からご連絡があったかと思います。田中様、大変なことに巻き込まれてしまいましたね。怖かったでしょう。」高橋の共感的な言葉に、京子の目から涙がこぼれた。「ええ、本当に…どうしたらいいのか。」
高橋は続けた。「現在、田中様の口座情報が外部に漏洩している可能性が高い状況です。このままでは、預金が全て引き出されてしまう危険があります。至急、セキュリティを強化した新しいキャッシュカードに交換する必要があります。」
「また、不正利用を防止するため、一時的に現在の口座を凍結させていただきます。」
「えっ、凍結ですか?そうすると、生活費が引き出せなくなってしまいます…」京子の不安が再び募る。
「ご安心ください、田中様。正しい手続きを本日中に行えば、生活への影響は最小限に抑えられます。しかし、本日中に対応しないと、口座が完全にロックされ、数ヶ月間資金が動かせなくなる可能性があります。」
「わかりました。今日中にやります。」
「ありがとうございます。では、本人確認のために現在の暗証番号を教えていただけますか?システム上で照合いたします。」
通常なら暗証番号を他人に教えることはあり得ない。しかし、京子はパニック状態にあり、さらに相手を「自分を助けてくれる銀行員」だと信じ込んでいた。「はい、暗証番号は…」
京子は、大切な暗証番号を伝えてしまった。「銀行と警察の指示なのだから、従わなければならない」という強迫観念が、正常な判断力を奪っていたのだ。

第3章:金融庁職員からの電話「全額を安全な口座へ移動してください」
銀行員との通話が終わってから30分後。また別の番号から電話が鳴った。今度は「03-XXXX-XXXX」、いかにも官公庁らしい番号だ。
「金融庁監督局の佐藤と申します。」
電話口に出たのは50代くらいの男性で、非常に冷静で専門的な用語を使う、威厳のある声だった。「警視庁の青木、三井住友銀行の高橋から報告を受けました。田中様のケースは、我々金融庁としても看過できない深刻な事態です。」
「深刻…ですか?」
「はい。国際的な犯罪組織が、組織的に田中様の資産を狙っています。現在の口座に資金を残しておくと、たとえカードを変えても、オンラインバンキング経由で全額が奪われる危険性が極めて高い。」
佐藤は畳み掛けるように言った。「緊急措置として、金融庁が管理する『特別保護口座』に、全資産を一時的に移動してください。これは犯罪被害者の資産を守るための、国が管理する安全な口座です。」
「金融庁が管理する口座…そんなものがあるのですか?」
「はい。本日14時までに手続きを完了しないと、資産凍結の対象となります。そうなれば、調査が終わるまで半年以上、一円も引き出せなくなります。」
京子は追い詰められた。「わかりました。どうすればいいですか?」
「今から申し上げる口座に、窓口で全額を振り込んでください。ATMでは限度額がありますので、必ず窓口で行ってください。なお、銀行窓口で理由を聞かれた際は『リフォーム代金』や『孫への援助』と答えてください。『警察に言われた』と言うと、銀行内の共犯者に情報が漏れる恐れがあります。」
京子は震える手で、指定された口座番号をメモした。
📊 統計データ:預貯金詐欺・キャッシュカード詐欺盗の被害状況
- 2024年被害総額: 約42億円(電話de詐欺関連)
- キャッシュカード詐欺盗認知件数: 年間2,000件以上
- 被害者の特徴: 70代以上の女性が圧倒的に多い
- 手口の傾向: 「警察官」「銀行協会職員」「金融庁」を名乗る劇場型が主流

第4章:振込実行、800万円を指定口座へ
午後1時。京子は通帳と印鑑をバッグに入れ、早足で近所の銀行へ向かった。心臓は早鐘を打っていたが、「これでお金が守れる」という思いだけで動いていた。
窓口の順番が来た。京子は窓口の女性行員に、震える声で告げた。「こ、この口座に、800万円全額を振り込みたいのですが。」
行員は金額の大きさに少し驚いた表情を見せ、「かしこまりました。高額のお振込となりますが、どのようなご用件でしょうか?」と尋ねた。これは銀行のマニュアル通りの詐欺防止確認だった。
京子の一瞬、金融庁の佐藤の言葉が頭をよぎった。『銀行内の共犯者に情報が漏れる恐れがあります』。
しかし、京子は嘘をつくのが苦手だった。それに、目の前の行員も「敵」かもしれないという恐怖があった。「…警察と金融庁の方から指示されました。私の口座が犯罪に使われているので、安全な口座に移すようにと…」
行員の表情が険しくなった。「お客様、それは詐欺の可能性があります。一度、警察に確認した方がよろしいのでは…」
京子は必死に反論した。「いいえ!電話番号も確認しました。警視庁の青木さんと、金融庁の佐藤さんからです!もし振り込まなかったら、私の財産が没収されてしまうんです!責任取れるんですか!」
普段は温厚な京子が、パニック状態で声を荒げた。行員は困惑し、上司と相談したが、京子の強い意志と「急いでいる」という剣幕に押され、最終的に振込手続きを進めてしまった。
800万円が、京子の口座から消え、詐欺グループの指定口座へと吸い込まれていった。
帰宅後、京子はすぐに警視庁の青木に電話で報告した(実際には犯人の携帯へ転送されていた)。
「青木さん、振り込みました。」
「ありがとうございます、田中様。これであなたの資産は安全に保護されました。明日、金融庁から新しいキャッシュカードと預かり証が書留で届きます。」
「よかった…」京子は電話を切ると、ソファに深く沈み込み、安堵のため息をついた。

第5章:詐欺発覚、警察への相談
翌日の午前。京子は郵便配達を今か今かと待っていた。しかし、昼を過ぎてもチャイムは鳴らない。
不安になり、昨日かかってきた「青木」「高橋」「佐藤」の番号に電話をかけた。しかし、どの番号も「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」というアナウンスが流れるだけだった。
「そんな…まさか」
京子の手足が冷たくなった。震える手で、電話帳で調べた「本物の」三井住友銀行の代表番号に電話をかけた。
「コールセンターの高橋さんという方はいらっしゃいますか?昨日、私のカード交換の手続きをしてくださったのですが…」
電話口の担当者は申し訳なさそうに答えた。「申し訳ございませんが、そのような履歴はございません。また、当行からお客様に暗証番号をお聞きしたり、別口座への振込を指示することは絶対にございません。」
目の前が真っ暗になった。京子はその足で、近くの交番へ駆け込んだ。
「警視庁捜査二課の青木さんという方はいらっしゃいますか!?」
対応した警察官は、京子の話を聞くと、悲痛な表情で首を横に振った。「奥さん、それは詐欺です。警察官が電話で口座のお金を動かすよう指示することは絶対にありません。」
京子はその場に崩れ落ちた。「私の800万円…夫が遺してくれた大切なお金が…」
その後の捜査で、振込先の口座は京子が振り込んだ直後に全額引き出され、すでに解約されていることが判明した。典型的な「トバシ口座」だった。犯人グループの特定は極めて困難で、お金が戻ってくる可能性はほぼゼロだという現実を突きつけられた。

第6章:劇場型電話詐欺の仕組みと心理操作術
京子が被害に遭った詐欺は、役割分担と心理操作が巧妙に組み合わされた「劇場型詐欺」の完成形だった。
まず、①権威役(警察官)が恐怖を煽る。「犯罪に関与している」「逮捕される」という言葉で、真面目な高齢者をパニック状態に陥れる。
次に、②信頼役(銀行員)が救いの手を差し伸べる。「助けてくれる人」として登場し、警戒心を解いて暗証番号などの重要情報を聞き出す。
最後に、③専門役(金融庁)が行動を強制する。「資産保護」という名目で、全財産を自ら振り込ませるよう誘導する。
また、「電話番号偽装」の技術も悪用されていた。特殊なアプリを使えば、発信者番号を任意の番号(警察署の番号など)に偽装して表示させることができる。京子が最初に番号を確認したことで、「本物だ」と誤認させたのが決定打となった。
そして「本日14時まで」という時間的圧迫。考える時間を与えず、誰かに相談する暇を与えないことで、冷静な判断を封じたのである。
エピローグ:全財産を失った孤独な老後
事件から3ヶ月。京子の生活は一変してしまった。
800万円の貯金は消え、残ったのは月12万円の年金のみ。固定資産税や家の修繕費を払う余裕はなくなり、住み慣れた家を手放して安いアパートへ引っ越すことも検討しなければならなくなった。
何より辛いのは、息子にこのことを言えないことだ。「お母さんはしっかりしているから大丈夫だね」と言ってくれていた息子の信頼を裏切ったこと、そして「欲」ではなく「恐怖」と「無知」で騙された自分への情けなさ。
京子は今、電話のベルが鳴るたびに恐怖で体が震えてしまう。
「私のような年寄りが、どうしてこんな目に…」
京子は涙ながらに語る。「警察も銀行も、電話でお金の話は絶対にしません。もし『口座』『振込』『暗証番号』という言葉が出たら、すぐに電話を切ってください。私のように、人生の最後で全てを失わないために。」

✅ 電話詐欺を見抜く3段階チェックリスト
【STEP 1】電話の内容
- 「口座が犯罪に使われている」「マネーロンダリング」という言葉が出る
- 「キャッシュカードを交換する」「暗証番号を教えて」と言われる
- 「今すぐ対応しないと逮捕される・口座凍結される」と急かされる
【STEP 2】相手の対応
- 警察官、銀行員、金融庁職員など、複数の人物が次々と電話に出てくる
- 「誰にも言うな」「極秘捜査だ」と口止めされる
- 表示されている電話番号が公的機関のものでも、折り返し電話をさせない
【STEP 3】お金の要求
- 「安全な口座にお金を移せ」と指示される
- ATMではなく窓口での振込を指示される
- 振込理由を「リフォーム代」などと嘘をつくよう指示される
類似詐欺事例との共通構造
今回の事例は、電話だけで完結する特殊詐欺ですが、他の劇場型詐欺とも共通点があります。
例えば、未公開株詐欺でも、複数の業者が役割分担をして被害者を信じ込ませる手口が使われています。また、投資用マンション詐欺における「第三者の介入」による信用付与も同様の心理操作です。ポンジスキーム詐欺のような投資話だけでなく、今回のような「資産を守る」という名目の詐欺も増えているため、注意が必要です。
🆘 緊急相談窓口
「詐欺かもしれない」と思ったら、すぐにご相談ください。
- 警察相談専用電話:#9110
(緊急でない相談・不審電話の通報) - 消費者ホットライン:188(いやや!)
(最寄りの消費生活センターへ繋がります) - 金融サービス利用者相談室:0570-016811
(金融庁の相談窓口) - 全国銀行協会相談室:0570-017109
(銀行取引に関する相談)
※被害に遭った場合は、直ちに最寄りの警察署に被害届を提出し、振込先の金融機関に「振り込め詐欺救済法」による口座凍結を依頼してください。


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